安土城郭調査研究所 研究紀要8号 木戸雅寿著
天主タヲレの記事に関連し、いわゆる私日記の主が誰から情報を得たのだろうか?と思った時、まず真っ先に頭に浮かんだのが、瓦職人ではなかったかと。
上記論文によれば、安土城から出土した刻印、線刻印の48種類という数は、かなりの瓦大工の棟梁がいたことになり、最低でも48を超える瓦工人集団(ひと集団5人としても、総勢240人は超える)の存在が考えられると、述べられている。
奈良衆が焼いたと言われるその瓦職人集団が、それだけいたということは、情報は一人からでは無く、複数の情報を得た可能性があるのではないでしょうか。
この論文で注目したいのは、安土の瓦を焼いたのは、藤原新右衛門尉宗次、藤原甚三郎家次ではと、人物特定されていることである。
その藤原宗次は弘治二年(1557年)生まれで、天正4年当時19歳であるが、その接点を見出せば面白いのだが。
最後に、瓦出土は天主を中心とする主郭部中心で、大手道、搦め手道の道沿いの塀門にも使われているようである。
天主タヲレの記事に関連し、いわゆる私日記の主が誰から情報を得たのだろうか?と思った時、まず真っ先に頭に浮かんだのが、瓦職人ではなかったかと。
上記論文によれば、安土城から出土した刻印、線刻印の48種類という数は、かなりの瓦大工の棟梁がいたことになり、最低でも48を超える瓦工人集団(ひと集団5人としても、総勢240人は超える)の存在が考えられると、述べられている。
奈良衆が焼いたと言われるその瓦職人集団が、それだけいたということは、情報は一人からでは無く、複数の情報を得た可能性があるのではないでしょうか。
この論文で注目したいのは、安土の瓦を焼いたのは、藤原新右衛門尉宗次、藤原甚三郎家次ではと、人物特定されていることである。
その藤原宗次は弘治二年(1557年)生まれで、天正4年当時19歳であるが、その接点を見出せば面白いのだが。
最後に、瓦出土は天主を中心とする主郭部中心で、大手道、搦め手道の道沿いの塀門にも使われているようである。

