侍の義理も知らず(笑)

侍の義理も知らず(笑)

戦国史研究の最新刊に、この間教えて頂いたものがありました。
今までの知識なら、織田掃部一色でしたが。
意外な名がそこに。
表題はその時に話が上がった、信長の言葉。
けっこう好きですね(笑)深い意味があって(爆

これとは別に、問題関心の一つ。
徳川氏の海上軍事と知多千賀氏 小川雄氏著
織田長益の大野領有時期などについての指摘は、首肯できる。
また、林秀貞の孫が千賀家へ養子しており、長島一揆の海上封鎖に参加しており海上活動能力や造船に関するノウハウを蓄積していたのではないかと指摘されている。
 これについては、I氏から前にご教示頂いたが、長島一揆で信為討ち死に後大野を支配したのは、林ではないかとのこと。
 小川氏は触れていないが、逆にそれではどこでノウハウを蓄積したのかという問題になるが。

滋賀県立安土城考古博物館催し物案内
今までは折りたたみのものでしたが、A4二枚見開きものに変わってます。
秋期特別展 3・11東日本大震災復興祈念
武将が縋った神仏たち
10月15日~11月20日まで
11月6日には小和田先生の記念講演会もあります。
信長に関するものでいうと鳴海にある織田稲荷とか。
春日井市の毘沙門天をお参りしました。
一昨年話題になった信長ゆかりの愛染明王は門前払いでした(笑)
メールうちながら、掃除していた尼さんでしたけど。
信長ゆかりといえば、可児市妙智寺に残る信長愛妾ゆかりの帯解観音とか。
これらは、まず出てこないでしょうね(笑)



 
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~ Comment ~

『戦国史研究』最新号の件

拙稿のご紹介、ありがとうございます。
林秀貞については、弘治年間から尾張国南部でも勢力を有し、海上の軍役にある程度対応しえたのではないかと理解していますが、紙幅の都合と十分な傍証を得られなかったことから、今回はカットせざるをえませんでした。
この点に関しては、構想中の「織田権力の海上軍事」(仮)にて、(いつか)取上げたいと考えています。その折にまたコメントをいただければ幸甚に存じます。

小川雄様
当ブログでお決まりですが(笑 ご本人様なのでしょうね。
はじめまして、ご本人様からコメント頂き恐縮です。

あまり詳しくないのですが、決して上から目線で見ているわけではありませんが、違和感のない論考でした。
林秀貞の見解、織田権力の海上軍事共に楽しみにしています。

千賀氏は鳥羽(地頭)の出なり
戦国の頃、千賀の豪族千賀志摩守は、九鬼嘉隆に攻められ、三河に逃れて徳川に仕えた。千賀氏一族の墓所が字、岡にあり、五輪塔が数基、当時の面影を残している。千賀氏はもともと姓を越智と名乗り、伊予からこの千賀浦に水軍として移り住んだ一族で、伊勢国北畠氏の支配下にあったが、九鬼嘉隆に敗れ、永禄年間(1558~70)に南知多の師崎に逃れた。いくつかの戦功があり、天正年間(1573~92)の頃より徳川氏に仕えるが、後に尾張藩の家臣となり、師崎で知行1500石を得て代々尾張藩の船奉行を勤めた。現在も師崎近くの正衆寺には千賀家代々の立派な墓が残されている。

恒川様
ご教示ありがとうございます。
勉強になりました。

千賀与五兵衛

こんばんは。いつも勉強になります。戦国史研究の「徳川氏の海上軍事と知多千賀氏」をようやく拝読しました。同論文に登場する、千賀与五兵衛は、天正二年には一益(?)の奉行人として連署している、千賀与五兵衛正成ですよね。「士林泝」所収の林の系図も気をつけないといけないでしょうね。

No title

ハンク様
情報ありがとうございます。
まだお持ちではなかったのなら、お送りすればよかったですね。
滝川大野領有説ですか。
今度Iさんとの討論が楽しみですね。

千賀与五兵衛

千賀与五兵衛の件ですが、説明不足で恐縮です。「滝川大野領有説」というのではありません。天正二年で福井孫七郎宛なので、伊勢だと思います。

No title

ハンク様
ご教示ありがとうございました。

私の本能寺観

力で得た領地を領有制で維持してきた武士を、律令制の任命国司の如き、選任して領治する制度に代え、領地の繁栄を競わせ、不適任者を退け適任者に替える方法で、土地の領有を廃止し、織田の権力を一族へ集中した武力と任免權で、制度を維持し、民に土地を配分して飢餓から救おうと、先ず自国内の領地領有制で動く、国人領主佐久間・林秀貞・安藤・などを追放すると、領地領有制で信長に従って来た、明智光秀・羽柴秀吉・前田利家やまだ信長に従わない戦国諸大名・朝廷まで、驚愕して信長暗殺を謀り、すでに追放され信長を狙う林秀貞に、様々な形で信長暗殺を依頼していた。
四国統一を信長から許されていた長宗我部元親が、織田方に傾いていた阿波三好と、伊予の西園寺を攻撃したので、信長は四国統一許可を破棄する工作を、光秀にさせたが不調に終わり、信長は三好を長宗我部に当たらせ、武田征伐を勝利で終えて、徳川家康に駿河を与えたが、徳川領は三方を織田勢に囲まれ、盟邦徳川を一織田部将の地位にし、光秀の「われらがあっての織田の成功」の言葉を咎めての信長の暴行は、家康・光秀に信長への反意を抱かせていた。
元親が、信長の敵毛利と和議したことを知った信長は、織田信孝を大将に四国征伐を命じた。
その頃駿河を得たお礼と、家康は安土に礼訪し、光秀はその接待役を信長に任じられ、四国征伐を阻止する最後の機会と、信長に四国征伐取りやめを進言したが、かえつて家康殺しを命じられ、これを拒むと足蹴にされ、在庄謹慎を命じられた光秀は、次は死か追放かと、信長殺しを決意した。
信長も光秀に死を命じ、畿内に残る光秀勢に、反乱されてはと毛利征伐を命じたが、光秀は、敵は本能寺にありと、兵を林秀貞の計略に従って、京に進めたとして書いて見みました

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御高説うけたまわりました。
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