本能寺と光秀の謎

本能寺と光秀の謎

歴史街道五月号を買った。
気がつけば、多忙の為半月も更新してなかった。

今回は玉石混交だった。
なぜ光秀の書かれる方は、あの調子なのか。読者に合わせているのだろうか。
光秀を大河ドラマにと誘致しているらしいが、今の大河の調子でやれば失笑ものの出来になるでしょうね。

女性史に興味のある私は、光秀の姉とも妹ともいわれる「妻木」について。
思文閣の佐久間信盛文書も取り上げて欲しかった。
橋場さんも、桐野さんも書かれていたが、桑実寺事件の数ヶ月後に亡くなっているのは、生き延びたということか?それとも成敗にそれだけ時間がかかったということか。とか考えたが、これも資料がないからよく分からないが。 濃姫付きと桐野さんは述べてられるが、桑実寺事件の際安土城に居たであろう濃姫は成敗の対象にはならなかったとの考えか。
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~ Comment ~

お久ぶりです。
自分も最近は多忙で、何かと間々ならない状況が続いています。
『歴街』のそれはまさに玉石混交ですが、なかでも、某御大が未だにそんなことを言っているのには笑ってしまいました。

「ツマキ」については、桐野さんのブログに最初にコメントを寄せさせていただいた事案だけに大いに関心を持っており、こちらでも過去に触れたこともあったかと思います。
当初はその素性をあれこれと推論しておりましたが、今では、光秀の妹で妻木某に嫁いだ後、濃姫付きの女房として織田家に入ったのではないかと考えております。ただ、その後もずっと信長のもとに居たのかというと異論があります。
それはすなわち、『言経卿記』天正七年五月二日条の記事にあります。

同記によれば、山科言経は亡父言継の家領を無事相続した御礼に妻子を同道して信長を訪問(ただし顔面の腫れ物により対面ならず)した後、続いて彼女のもとにも立ち寄り贈答を行っていますが、それについて言経は
  其外近所女房衆ツマキ・小比丘尼・御ヤヽ等ニ帯二筋ツヽ遣了、其外カヽ遣了
と記しており、ツマキの居所が信長とは別にあったことを窺わせます。

もっとも、同年の『兼見卿記』に「惟向州妹」とも「惟任姉」とも記されている「妻木」の存在が認められる時期、信長も上洛していますから、一緒に上洛し、光秀の屋敷に滞在したとも言えそうですが、翌八年の正月に坂本城に居た「妻木」が彼女だとしたら、ある時期より光秀のもとに戻ったとも考えられるのではないでしょうか。

それに関連して注目されるのは、光秀の室の死亡時期であり、明智家の菩提寺である西教寺の過去帳によれば、彼女は天正四年の十一月に死去したとされており、同年五月頃には光秀が大病を患っていることからすれば、ツマキはその彼女に代わって光秀の世話と明智家の奥向きを取り仕切るようになっていたのではないでしょうか。

そのツマキの死が信長と光秀の関係に影を落としたのではないかというのは予てからの持論であり、今回の桐野さんのご論説には我が意をを得たりとの感があります。

Tm殿
妻木は光秀の妹なら、妻木姓ではだめなのではないでしょうか。
妻木姉妹が、光秀室と後家ということですかね。
まだまだ自分なりに結論を出せてませんが。
西教寺は墓石ではなかったでしょうか?
過去帳は確認してませんでした。

妻木の死が影を落としたというのは、異論はないです。
濃姫付きだったとして、死亡時まで側に居たかどうかが問題ですが。
私は養華院は濃姫ではないと思っているので、その説には賛同しません。

>妻木は光秀の妹なら、妻木姓ではだめなのではないでしょうか。

当初、桐野さんもその点に注目され、光秀が妻木氏から養子入りした可能性を示唆されていましたが、その後なんらかの折に、寡婦の場合、婚家の姓で呼ばれる事例のあることを指摘させていただいた覚えがあります。
『言経』ではまさに「小比丘尼(・御ヤヽ)」といった僧体の女性と一緒に居り、彼女が前久長男・尊勢の興福寺一乗院への入室問題に関わった背景にも、彼女自身のそうした立場も考えられるのではないでしょうか。
その後、桐野さんもその説を公式には表明されたことはないと思われますが、今回の「歴街」で橋場さんが、光秀室と入れ替わりに妹(光秀の)が妻木氏に嫁いだのではないかと述べられおられるのは、同じ観点からでしょうかね。

>西教寺は墓石ではなかったでしょうか?
 過去帳は確認してませんでした。

すいません、その点は2007年当時に得た知識によるものので、それ以降、自分自身では確認しておりません。全くの受け売りです。

妻木

Tm殿
寡婦の場合婚家の姓で呼ばれるですが、今後の課題としたいです。
やや、自説に都合がよい感がしますが、自分自身もその傾向がありますので(笑)
橋場さんの入れ替わり説は、何か聞いたことがあるように思いますが、桐野さんだったですかね。

正直言うと、「光秀=妻木氏」説もそれを説明し得る事例はあるんですよね(笑
父親が婿入りし室方の姓を名乗りながら、その子らはその父方の旧姓を称した有名な事例が。
多分、k2殿にはお分かりのことと存じますが。

光秀の出自については史料が乏しく色々な説がありますが、父親は明智氏から妻木氏に婿入りしたが光秀自身は明智姓を称し(継ぎ)、その妹(姉?)は妻木姓で呼ばれたという可能性もあるのではないでしょうか。
実は過去に、妻木某こそが光秀の本当の父親ではないかと考えたことがあります。
彼は一族の後を追うが如く切腹した人物ですが、『兼見』に出てくる姉・妹と説明されていない「妻木」(二例)がその彼ではないかと(信長の側近より上位に扱われている?)。
多分、それは自分のオリジナルな主張(妄想)になるかと思いますが。

>橋場さんの入れ替わり説は、何か聞いたことがあるように思いますが、桐野さんだったですかね。

桐野さんは、過去に「ツマキ」を光秀室の姉妹で光秀の後室でないかと述べられていたこともありますが、それ以降どの様に考えられているのかは分かりません。

>父親が婿入りし室方の姓を名乗りながら、その子らはその父方の旧姓を称した有名な事例が。

自己レスになりますが、どうもそれについては色々と異論もあり不確かな発言であったようですいません。

ただ、光秀の場合、父親云々以前に、光秀自身は明智姓を名乗ったが実家は妻木氏だったので妹(姉)は妻木姓で呼ばれていたという可能性もあるのかも知れません。

光秀室については一応、妻木煕子という名が伝わっていますが、一次史料において確認できるものがなく、その父については範煕とも広忠とも伝わっており、実際のところ、彼女が妻木姓であったかも確かではないのではないでしょうか。
実は煕子こそが明智姓で、光秀は妻木氏より婿入りし明智姓を名乗ったが、混乱の中、誤って後世に伝えられたということもあり得るのではないでしょうかね。

一次史料によって確認できる光秀妹(姉)の「ツマキ」について後世語り継ぐものがないのに対し、それとは逆の煕子の妹についての逸話があるのも何やら曰くありげに思われます。
光秀の妹=「ツマキ」が煕子の妹にすり替わり、結果、煕子=妻木氏ということになったのではないか、範煕の名は煕子より創作されたのではないかと・・・・・・

妻木

Tm殿
連投どうも。
妻木について濃飛の文化財で横山住雄氏が土岐明智氏と妻木氏の系譜補正という論考を「上・下」と書かれています。 
 その下で触れていらっしゃいますが、真相はやはりよく分からないです。
しかし、Tm殿がおっしゃられることは支障がないように思います。
光秀の逸話は、妻子もふくめて創作されたものが多く、その逸話を史実のように扱うのはよくないと思っています。去年のテレビ東京の番組など・・

2008年12月22日佐久間信盛自筆書状の項を再読下さい。
つまきか御牧かについて、桐野さんの指摘されたコメントもあります。最近ツイッターも始められたようで、そこでもつぶやいてますね。最近ブログよりツイートのほうがいいかなと感じてますが・・
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