とうとう手にいれました瑞龍寺過去帳コピー。
永姫母、正覚院について論争した経緯も有り、一度確認したかった。
少し字が違っているとこもあり興味深かった。
正覚院が、寺伝で濃姫ではないかという事も聞いたことがあった。
しかしながらそれは無いように思った。
それは、例えば永姫は利長の簾内とあり、まつは、利家の簾内、とある。
濃姫なら、信長公の簾内となる筈だが、玉泉院殿母儀とあり、濃姫説は難しいでしょう。
ただ、永姫母はもう一説あるが個人的にはこちらを支持している。
永姫母、正覚院について論争した経緯も有り、一度確認したかった。
少し字が違っているとこもあり興味深かった。
正覚院が、寺伝で濃姫ではないかという事も聞いたことがあった。
しかしながらそれは無いように思った。
それは、例えば永姫は利長の簾内とあり、まつは、利家の簾内、とある。
濃姫なら、信長公の簾内となる筈だが、玉泉院殿母儀とあり、濃姫説は難しいでしょう。
ただ、永姫母はもう一説あるが個人的にはこちらを支持している。
桐野様の歴読誌連載の信長 狂乱と冷徹の軍事カリスマでは、現在舅斎藤道三が討ち死にしたところ迄、進んでいる。
この回でも紹介されている、有名な織田玄蕃充殿宛。
三郎殿様(信長)を慮って書いた道三の心情が分かるものであり、桐野様も、正徳寺会見の前の書状であることから、早い段階で気にしていたことを示していた、と論考されている。
それより前と思われる書状を紹介する。
大阪青山歴史文学館蔵 斎藤道三書状 天文廿一年頃
雖未申承候、以事之次、令
啓候、家来之者、那古野ヘ
往還付而、種々御馳走之
由候、誠不寄存知子細快
然候、自今巳後、切々可申
述事本望候、随而弓廿張
進之候、聊爾之儀候、恐々謹言
四月七日 道三(花押)
佐々隼人佐殿
御宿所
井口と那古野の間を佐々の居城比良城があるのだが、家臣が往来するに辺り便宜をはかってくれた事に対する礼状である。この時道三は、弓20張贈っている。
信長との連絡を取り合っていたことを示す資料である。
武将感状記にある、寝所を抜け出し云々は一次史料からは考えられないですね。
この回でも紹介されている、有名な織田玄蕃充殿宛。
三郎殿様(信長)を慮って書いた道三の心情が分かるものであり、桐野様も、正徳寺会見の前の書状であることから、早い段階で気にしていたことを示していた、と論考されている。
それより前と思われる書状を紹介する。
大阪青山歴史文学館蔵 斎藤道三書状 天文廿一年頃
雖未申承候、以事之次、令
啓候、家来之者、那古野ヘ
往還付而、種々御馳走之
由候、誠不寄存知子細快
然候、自今巳後、切々可申
述事本望候、随而弓廿張
進之候、聊爾之儀候、恐々謹言
四月七日 道三(花押)
佐々隼人佐殿
御宿所
井口と那古野の間を佐々の居城比良城があるのだが、家臣が往来するに辺り便宜をはかってくれた事に対する礼状である。この時道三は、弓20張贈っている。
信長との連絡を取り合っていたことを示す資料である。
武将感状記にある、寝所を抜け出し云々は一次史料からは考えられないですね。
古溪宗陳の法語録(蒲庵稿)にある上記女性の三十三回忌。
施主は難波に居住したとあるが、本女性については、例えば茶道文化研究や、大徳寺禅語録、古溪宗陳(竹貫元勝著)など特定には至っていない。
年次は、天正十二年仲夏廿九日。三十三回忌と言うことは、天文廿年に没。
この年に亡くなった方で思い浮かぶのは、濃姫の母小見の方。
美濃国諸旧記にある、天文二十年三月十一日卒。
年は合ってるが、日は合わない。濃姫が天正十二年難波に住んだというのも可笑しな話ですが、、、
濃姫の足跡を求める事は、難しいですね。
施主は難波に居住したとあるが、本女性については、例えば茶道文化研究や、大徳寺禅語録、古溪宗陳(竹貫元勝著)など特定には至っていない。
年次は、天正十二年仲夏廿九日。三十三回忌と言うことは、天文廿年に没。
この年に亡くなった方で思い浮かぶのは、濃姫の母小見の方。
美濃国諸旧記にある、天文二十年三月十一日卒。
年は合ってるが、日は合わない。濃姫が天正十二年難波に住んだというのも可笑しな話ですが、、、
濃姫の足跡を求める事は、難しいですね。
元亀四年六月十八日 (群書類従から)
濃姫の養子になったか、どうかは軍記ものに出てくる記述であり信憑性に関して低いと言わざるを得ないでしょう。これを裏付けるものではないかと私は思っているのが上記資料。
有名な上京焼き打ちの際、被災を免れた下京の献金リスト。
この筆頭に出てくるのが、
銀拾貫七百五拾匁 殿様
同壱貫弐百九拾匁但金三まいふん 政様
中略
同弐百目ししら拾端 政様
同百目 同 御きみやう様
この政様が、=濃姫。正室を指すのでしょうか?
この政様が、養子にしていた御きみょう様(信忠)と共に上洛をしていたのでは?と思うがいかに。献金の筆頭は、
銀弐百拾五匁 妙覚寺
そう、道三の子が入ったと言われる妙覚寺というのも濃姫の影ガあるような無いような。
ところが、大日本史料の名は、
政様のところは、殿様となっているので真意は不明であるが、濃姫であって欲しいと思ってい
る。
濃姫の養子になったか、どうかは軍記ものに出てくる記述であり信憑性に関して低いと言わざるを得ないでしょう。これを裏付けるものではないかと私は思っているのが上記資料。
有名な上京焼き打ちの際、被災を免れた下京の献金リスト。
この筆頭に出てくるのが、
銀拾貫七百五拾匁 殿様
同壱貫弐百九拾匁但金三まいふん 政様
中略
同弐百目ししら拾端 政様
同百目 同 御きみやう様
この政様が、=濃姫。正室を指すのでしょうか?
この政様が、養子にしていた御きみょう様(信忠)と共に上洛をしていたのでは?と思うがいかに。献金の筆頭は、
銀弐百拾五匁 妙覚寺
そう、道三の子が入ったと言われる妙覚寺というのも濃姫の影ガあるような無いような。
ところが、大日本史料の名は、
政様のところは、殿様となっているので真意は不明であるが、濃姫であって欲しいと思ってい
る。
本日が三ノ丸殿の命日。
墓参できないが、花園妙心寺に向かって合掌。
韶陽院跡とは、現在庭園の跡と墓地のみになっており、広い妙心寺の中で
ポッカリ穴が空いた空間となっている。
場所は、およそ境内の東北、蟠桃院の東側、桂春院の西側である。
その桂春院に、秀信の弟秀則の墓がある。
津田宗爾という名で、寺門の前に名が見える。
墓参できないが、花園妙心寺に向かって合掌。
韶陽院跡とは、現在庭園の跡と墓地のみになっており、広い妙心寺の中で
ポッカリ穴が空いた空間となっている。
場所は、およそ境内の東北、蟠桃院の東側、桂春院の西側である。
その桂春院に、秀信の弟秀則の墓がある。
津田宗爾という名で、寺門の前に名が見える。




