辰張というのは、延暦寺の寺伝によれば、比叡山の昔の持ち主で、
十年間借りると寺側が約束しながら十の上に「ノ」の字を加えて
千年ということにしてしまったので、憤死してしまった。
信長(音読みすればしんちょう)は辰張の生まれ代わりで、
千年前の怒りをぶちまけたものであるという。
信長の焼き討ちは辰張のたたりという解釈から、毎年十二月二十二日
辰張忌の法要を一山で営んでいる。
近江歴史散歩 徳永真一郎著
十年間借りると寺側が約束しながら十の上に「ノ」の字を加えて
千年ということにしてしまったので、憤死してしまった。
信長(音読みすればしんちょう)は辰張の生まれ代わりで、
千年前の怒りをぶちまけたものであるという。
信長の焼き討ちは辰張のたたりという解釈から、毎年十二月二十二日
辰張忌の法要を一山で営んでいる。
近江歴史散歩 徳永真一郎著
野間藤六
経歴不詳の人物である。知多半島の野間出身でいわゆる御噺衆の一人カ。
信長公、馬上にて、ひたもの御睡りありつるを、沼(野間)藤六がおどろかし申せば、「ここはどこぞ」。
「右は六条、さきはとうふくじ」と申したりつるに、
「あのしらかべかや」と。
しらかべは豆腐の異名で、とうふくじ(東福寺)と豆腐喰うじにかけているのである。馬上で居眠りしている信長も面白いが、驚かせてお咎め無しの藤六も余程信長に愛されていたのであろう。
経歴不詳の人物である。知多半島の野間出身でいわゆる御噺衆の一人カ。
信長公、馬上にて、ひたもの御睡りありつるを、沼(野間)藤六がおどろかし申せば、「ここはどこぞ」。
「右は六条、さきはとうふくじ」と申したりつるに、
「あのしらかべかや」と。
しらかべは豆腐の異名で、とうふくじ(東福寺)と豆腐喰うじにかけているのである。馬上で居眠りしている信長も面白いが、驚かせてお咎め無しの藤六も余程信長に愛されていたのであろう。
安土山の南西四キロほどのところに沼があり、その沼から、毎夜毎夜光明が輝くのを見ました。その池は「出て池」と呼ぶ沼でした。信長は不思議に思って、柴田勝家に命じてその沼池を調べさせてみました。すると、とても大きな、一人や二人では持ち上げられないような土仏が出て来ました。その仏はお釈迦さんでした。このお釈迦さんは、金光山永昭寺というお寺のご本尊でした。もとは、佐々木氏が寄進したものでした。殿屋敷というところに寺があったが、信長の為に焼き討ちにされ、土地の人がご本尊様を火難から免れるために、沼に沈めたということです。そこで信長は、この仏のために300石を与えてする様に命じたのでした。
この地方では「火事が起こらない」「雷が落ちない」のはこの仏さまのおかげだということがわかりました。この辺り、西庄村には四ヶ寺があって、毎年輪番に一度交替でこの仏さまをおまつりしていたのですが、いつのころからか円光寺にまつっていたとき、次のお寺に移そうと思い、力持ちの男が四人がかりで抱き上げようとしましたが、どうしても上がらなかったので、これ以来円光寺にまつることになりました。
近江八幡 ふるさとの昔ばなし 近江八幡史教育委員会編
この地方では「火事が起こらない」「雷が落ちない」のはこの仏さまのおかげだということがわかりました。この辺り、西庄村には四ヶ寺があって、毎年輪番に一度交替でこの仏さまをおまつりしていたのですが、いつのころからか円光寺にまつっていたとき、次のお寺に移そうと思い、力持ちの男が四人がかりで抱き上げようとしましたが、どうしても上がらなかったので、これ以来円光寺にまつることになりました。
近江八幡 ふるさとの昔ばなし 近江八幡史教育委員会編
本阿弥行状記 三巻より
彼女は戦国の末から江戸のかかりにかけ生きた。彼女の本阿弥家は刀剣の鑑定、トギを家業にして足利将軍家に仕えた古い家である。妙秀はその七代、光心の長女であり、片岡家の次男坊を養子に迎えた。すなわち「刀脇差の目利細工並もなき名人」と語られている夫、光二である。妙秀は男まさりの気丈な性格だった。織田信長の時代である。信長は彼に背いた伊丹城主荒木村重を討った。村重の敗北後、彼が所持していた名刀が市中に売られていたのを光二はたまたま手に入れた。ところが信長側近に、その刀に目を付けたものがいた。何しろ値打ち物である。何とかタダどりをと企んだ。信長と光二は、元から刀剣のかかわりを通じて懇意だった。が、男の信長への中傷に彼の一命は危うくなり「身にくもりなきことは天道御存じなるべし」光二は無念の思いで家に引き篭もった。その折。加茂山で鹿狩りの信長の馬の口に、突然取りすがった女がいた。夫は落ち度もなしに勘気を蒙っております。無実を訴える妻の妙秀だった。信長は「にくき女」_アブミで彼女を蹴倒した。それでも彼女の必死が信長に通じたらしく、翌日、夫は信長に呼び出され天下晴れての身になった。
彼女は戦国の末から江戸のかかりにかけ生きた。彼女の本阿弥家は刀剣の鑑定、トギを家業にして足利将軍家に仕えた古い家である。妙秀はその七代、光心の長女であり、片岡家の次男坊を養子に迎えた。すなわち「刀脇差の目利細工並もなき名人」と語られている夫、光二である。妙秀は男まさりの気丈な性格だった。織田信長の時代である。信長は彼に背いた伊丹城主荒木村重を討った。村重の敗北後、彼が所持していた名刀が市中に売られていたのを光二はたまたま手に入れた。ところが信長側近に、その刀に目を付けたものがいた。何しろ値打ち物である。何とかタダどりをと企んだ。信長と光二は、元から刀剣のかかわりを通じて懇意だった。が、男の信長への中傷に彼の一命は危うくなり「身にくもりなきことは天道御存じなるべし」光二は無念の思いで家に引き篭もった。その折。加茂山で鹿狩りの信長の馬の口に、突然取りすがった女がいた。夫は落ち度もなしに勘気を蒙っております。無実を訴える妻の妙秀だった。信長は「にくき女」_アブミで彼女を蹴倒した。それでも彼女の必死が信長に通じたらしく、翌日、夫は信長に呼び出され天下晴れての身になった。
その名のごとく、表の腰に岩上立不動の見事な浮彫がある。
本能寺の変後明智光秀の手に渡り後、明智左馬助が坂本に持ち帰り、落城の際に、天下の名宝であるからという逸話のある名刀である。
信長は、酒に酔えば自ら膝をたたいて、「不動国行、つくも髪、人には五郎左ござ候」と歌ったという。
つくも髪は名物の茶入れであり、五郎左は丹羽長秀、この三つが信長の自慢のものであったらしい。(新日本名刀100選 佐藤寒山著 H2年)
この歌の出典が分かりません、ご存知の方ご連絡を。
*信長は五郎左とござとインをフンでいるところが面白い。
本能寺の変後明智光秀の手に渡り後、明智左馬助が坂本に持ち帰り、落城の際に、天下の名宝であるからという逸話のある名刀である。
信長は、酒に酔えば自ら膝をたたいて、「不動国行、つくも髪、人には五郎左ござ候」と歌ったという。
つくも髪は名物の茶入れであり、五郎左は丹羽長秀、この三つが信長の自慢のものであったらしい。(新日本名刀100選 佐藤寒山著 H2年)
この歌の出典が分かりません、ご存知の方ご連絡を。
*信長は五郎左とござとインをフンでいるところが面白い。



