信長が辿った道を、訪ねると高いところが多い。
それは、戦略上見晴らしの良いところを選んで陣したのであろうが、逆に敵方から見て、脅威を与えるのに効果的であったろう事は、充分想像に難くない。
見上げた敵方の本陣に、永楽銭の旗が建った時、戦う相手は戦意を喪失したのでは?
例えば、
槇島城攻め←柳山
二条城攻め←知恩院
池田城攻め←五月山
私が、本当に呆れたのが?浅井攻めの際、始めは手前で標高も低い虎御前山。
ここでは、見下ろせない。
そこで、信長は小谷城を見下ろす、大嶽を落とす事を決意し、それを実行に移すのであるが、現地へ行くとこの裏手から良く攻め落とせたものだと感嘆した。
そして、呆れたと言うのは小谷山の裏へ回ると信長が陣した山田山が前方に見えてくる。
その標高541。あの高い大嶽が494なので、想像つくと思うが、本当にあの山に?と思う程の高さの山である。
その後、谷口先生の著書「織田信長合戦全録」の冒頭を飾った有名な朝倉追撃戦が始まる。
虎御前山に残る、嫡男奇妙は父の背中をどう見送ったのでしょうか?
まだ、三好攻めの駒ヶ谷や、伊賀攻めの後に登った国見山など未征服なので、いつか訪れてみたい。
それは、戦略上見晴らしの良いところを選んで陣したのであろうが、逆に敵方から見て、脅威を与えるのに効果的であったろう事は、充分想像に難くない。
見上げた敵方の本陣に、永楽銭の旗が建った時、戦う相手は戦意を喪失したのでは?
例えば、
槇島城攻め←柳山
二条城攻め←知恩院
池田城攻め←五月山
私が、本当に呆れたのが?浅井攻めの際、始めは手前で標高も低い虎御前山。
ここでは、見下ろせない。
そこで、信長は小谷城を見下ろす、大嶽を落とす事を決意し、それを実行に移すのであるが、現地へ行くとこの裏手から良く攻め落とせたものだと感嘆した。
そして、呆れたと言うのは小谷山の裏へ回ると信長が陣した山田山が前方に見えてくる。
その標高541。あの高い大嶽が494なので、想像つくと思うが、本当にあの山に?と思う程の高さの山である。
その後、谷口先生の著書「織田信長合戦全録」の冒頭を飾った有名な朝倉追撃戦が始まる。
虎御前山に残る、嫡男奇妙は父の背中をどう見送ったのでしょうか?
まだ、三好攻めの駒ヶ谷や、伊賀攻めの後に登った国見山など未征服なので、いつか訪れてみたい。
武田勝頼を滅ぼした信長は、東海道を辿り安土へと向かった。
その行程は信長公記に詳しい。それを列挙して見ると
4月12日本栖
かみのが原(富士宮市) 御小姓衆、何れもみだりに御馬をめされられ御くるひなされ
井手野
人穴 御見物
上井手の丸山 くはしく御尋ねなされ
白糸の滝
浮島が原 (沼津市) 御馬暫くめさせられ
4月13日大宮(浅間神社)
富士川 乗りこさせられ
神原 御茶屋構へ、一献進上候なり
吹上げの松
六本松
和歌の宮 子細、御尋ねなされ
興国寺、吉原、三枚橋、かちょうめん、天神川、深沢城
神原の浜辺
清見が関
田子の浦
三保が崎 御心をつけられ
三保の松原
久能の城(静岡市)
4月14日
江尻城
駿府府中の町 町口に御茶屋立て置き、一献進上申さる
今川氏の古跡
千本桜 くはしく尋ね聞こしめし
安部川 こさせられ
持舟(用宗城)
丸子城
宇津谷峠の入口に館 坂口に御屋形を立て、一献進上候なり
偽之橋 誠に卒渡したる偽之橋とて、名所あり
花沢城
堂目の虚空蔵 能く〜尋ねきかされ候て
4月15日
田中城御泊り
後略
ここまで、自分が昔辿った道程を列挙して見た。
調べて見ると、この記述は、信長が行ったところは少なく、見た及び尋ねた所が大半を占める。
なかでも、確実に行った所は人穴である。
この場所、地図見ながら行ったが、農道が多く交錯しており迷いに迷って、ようやく辿りついた思い出がある。階段を下りて行くと、温度が変わりヒヤッとするほど、寒くなる。
懐中電灯を持っていなかったので、奥には入って行かなかったが、真っ暗な奥から人の声がしたので、勇気のある方は、どうぞ。また、白糸の滝は、看板が立っており、観光客も多く賑わっていた。
ここから、浅間神社まで、下り坂となっていて信長と御小姓衆が先を競って駆けたのではと思わせる様な道程だった。静岡市に入ると、有名な秀吉の羽織茶屋のある家を立ち寄る。
その前の道など、狭い道だったのは意外であった。
堂目の虚空蔵は、その羽織のある山を抜けると、海側に見える小さなツリーの様な山で、現在麓の弘徳院に有るが、拝観不可であった。
最後に、旧上九一色村に、信長の腰かけ石というのがあるそうなのですが、ご存知の方コメント下さい。
その行程は信長公記に詳しい。それを列挙して見ると
4月12日本栖
かみのが原(富士宮市) 御小姓衆、何れもみだりに御馬をめされられ御くるひなされ
井手野
人穴 御見物
上井手の丸山 くはしく御尋ねなされ
白糸の滝
浮島が原 (沼津市) 御馬暫くめさせられ
4月13日大宮(浅間神社)
富士川 乗りこさせられ
神原 御茶屋構へ、一献進上候なり
吹上げの松
六本松
和歌の宮 子細、御尋ねなされ
興国寺、吉原、三枚橋、かちょうめん、天神川、深沢城
神原の浜辺
清見が関
田子の浦
三保が崎 御心をつけられ
三保の松原
久能の城(静岡市)
4月14日
江尻城
駿府府中の町 町口に御茶屋立て置き、一献進上申さる
今川氏の古跡
千本桜 くはしく尋ね聞こしめし
安部川 こさせられ
持舟(用宗城)
丸子城
宇津谷峠の入口に館 坂口に御屋形を立て、一献進上候なり
偽之橋 誠に卒渡したる偽之橋とて、名所あり
花沢城
堂目の虚空蔵 能く〜尋ねきかされ候て
4月15日
田中城御泊り
後略
ここまで、自分が昔辿った道程を列挙して見た。
調べて見ると、この記述は、信長が行ったところは少なく、見た及び尋ねた所が大半を占める。
なかでも、確実に行った所は人穴である。
この場所、地図見ながら行ったが、農道が多く交錯しており迷いに迷って、ようやく辿りついた思い出がある。階段を下りて行くと、温度が変わりヒヤッとするほど、寒くなる。
懐中電灯を持っていなかったので、奥には入って行かなかったが、真っ暗な奥から人の声がしたので、勇気のある方は、どうぞ。また、白糸の滝は、看板が立っており、観光客も多く賑わっていた。
ここから、浅間神社まで、下り坂となっていて信長と御小姓衆が先を競って駆けたのではと思わせる様な道程だった。静岡市に入ると、有名な秀吉の羽織茶屋のある家を立ち寄る。
その前の道など、狭い道だったのは意外であった。
堂目の虚空蔵は、その羽織のある山を抜けると、海側に見える小さなツリーの様な山で、現在麓の弘徳院に有るが、拝観不可であった。
最後に、旧上九一色村に、信長の腰かけ石というのがあるそうなのですが、ご存知の方コメント下さい。
H20年3月9日(日)於やまびこ館 ホール
初朽木。元村なので寒村だと思ったが、思ったより田舎ではなかった。
講演1、戦国時代のお城は面白い 千田嘉博氏
お名前は、かねがね知っていたが初めて拝聴。
城跡から桶狭間の戦いを再評価する 愛知県桑下城の調査を冒頭に述べられた。
不勉強で、知らなかったが去年発掘調査があったとの事。
場所は、瀬戸市。那古野、守山の延長線にある城で、桶狭間の前年に、信長が攻めたが、攻め落とせず当年一月に城を攻め落とし、その勢いで、鳴海、大高の両城を包囲したところから、義元が出陣することになったと発端を述べられた。また、その後の家康との同盟により、桑下城の堀は埋め戻され、この城の動向から、新しい解釈が可能にナル。
なるほど、と思わせると共に、お話されるのが上手で聞き易かった。
面白かったのが、城の構造による主従関係を述べられてる所で、席順でもそれが分かるとパネルを使って説明された。
天正記の秀吉に謁見した、毛利輝元の席次、伊賀の国人の城構造の後、お勤めの奈良大学での、席順を紹介され、学長の左右にズラッと並んだのを見て、学長はそんなに権限は無い様だ?とおっしゃられた時は笑いがおこった。
もうひとつの講演は、別に、、、ということで。
初朽木。元村なので寒村だと思ったが、思ったより田舎ではなかった。
講演1、戦国時代のお城は面白い 千田嘉博氏
お名前は、かねがね知っていたが初めて拝聴。
城跡から桶狭間の戦いを再評価する 愛知県桑下城の調査を冒頭に述べられた。
不勉強で、知らなかったが去年発掘調査があったとの事。
場所は、瀬戸市。那古野、守山の延長線にある城で、桶狭間の前年に、信長が攻めたが、攻め落とせず当年一月に城を攻め落とし、その勢いで、鳴海、大高の両城を包囲したところから、義元が出陣することになったと発端を述べられた。また、その後の家康との同盟により、桑下城の堀は埋め戻され、この城の動向から、新しい解釈が可能にナル。
なるほど、と思わせると共に、お話されるのが上手で聞き易かった。
面白かったのが、城の構造による主従関係を述べられてる所で、席順でもそれが分かるとパネルを使って説明された。
天正記の秀吉に謁見した、毛利輝元の席次、伊賀の国人の城構造の後、お勤めの奈良大学での、席順を紹介され、学長の左右にズラッと並んだのを見て、学長はそんなに権限は無い様だ?とおっしゃられた時は笑いがおこった。
もうひとつの講演は、別に、、、ということで。
行って来ました、朽木。
結論から言いますと、分かりませんでした。
行くまでは、雪は全然大丈夫でしたが、山の中は、かなり雪が残っており、人の足跡よりキツネか、鹿か分からない動物の足跡ばかりが目立っていた。
時には膝まで埋まりながら、何とか西山城跡の入り口まで登ったが、ここでどうやって行くか道が分からない。足跡なし、雪はもっと深く、諦めた。
下から登ろうとも考えたが、これも雪で入り口が分からない。
やはり3月では早かったようだ。
さて、何故信長の隠れ岩伝説が、ここ朽木に残っているのか分かった。
それは、総見寺に残るあの信長の皮ズボン(社会の窓がついている)
は、ここ朽木で、元綱の家臣長谷川惣兵衛が信長を迎えた場所が三ツ石という場所で、隠れ岩はその東斜面に当たる。
信長は、朽木元綱の動向を計れない為、手前で、息を潜めて返事を待ったという事なのでしょうか?
長谷川家の古文書によると、市場の圓満堂で休息し、御茶と御菓子を接待したところ、上記皮袴と銀箸を下したとある。
注、三ツ石から数百メートル朽木よりにあり、ありがたい事に、看板が有る。
結論から言いますと、分かりませんでした。
行くまでは、雪は全然大丈夫でしたが、山の中は、かなり雪が残っており、人の足跡よりキツネか、鹿か分からない動物の足跡ばかりが目立っていた。
時には膝まで埋まりながら、何とか西山城跡の入り口まで登ったが、ここでどうやって行くか道が分からない。足跡なし、雪はもっと深く、諦めた。
下から登ろうとも考えたが、これも雪で入り口が分からない。
やはり3月では早かったようだ。
さて、何故信長の隠れ岩伝説が、ここ朽木に残っているのか分かった。
それは、総見寺に残るあの信長の皮ズボン(社会の窓がついている)
は、ここ朽木で、元綱の家臣長谷川惣兵衛が信長を迎えた場所が三ツ石という場所で、隠れ岩はその東斜面に当たる。
信長は、朽木元綱の動向を計れない為、手前で、息を潜めて返事を待ったという事なのでしょうか?
長谷川家の古文書によると、市場の圓満堂で休息し、御茶と御菓子を接待したところ、上記皮袴と銀箸を下したとある。
注、三ツ石から数百メートル朽木よりにあり、ありがたい事に、看板が有る。
先日紹介した総見寺の鐘。
間違いなく、吹田市岸辺の大光寺に現存している。
阪急正雀駅から数分の場所にある。
国道からは、一方通行の逆行きの為、中々たどり着けなかった。
鐘は正門横にあり、安土総見寺の鐘であった事を記してあった。
ものは、わりと小さくよく見てみると、、、相国一品泰巖など見てとれる。
この鐘、総見寺が後に、取り戻そうと話にこられた事があったとか。
また、場所が違うが安土城二の丸前にあった石灯篭は現在滋賀県東近江市羽田神社に現存する。有楽斎の孫三五郎長好が寄進したものである。
本殿裏にあり、以前訪れた際宮司さんが長々と説明して下さった。
間違いなく、吹田市岸辺の大光寺に現存している。
阪急正雀駅から数分の場所にある。
国道からは、一方通行の逆行きの為、中々たどり着けなかった。
鐘は正門横にあり、安土総見寺の鐘であった事を記してあった。
ものは、わりと小さくよく見てみると、、、相国一品泰巖など見てとれる。
この鐘、総見寺が後に、取り戻そうと話にこられた事があったとか。
また、場所が違うが安土城二の丸前にあった石灯篭は現在滋賀県東近江市羽田神社に現存する。有楽斎の孫三五郎長好が寄進したものである。
本殿裏にあり、以前訪れた際宮司さんが長々と説明して下さった。



