信長の近習。谷口先生にいう第三世代。
信長の親衛隊で、少し触れていらっしゃるが、変後秀吉に仕えるが、パッとしないようで、
武士なのに、竹を切り。釘として売っていたと、愛すべきキャラクターの人物。
信雄もそうだが、何か影の有る人物に興味を覚える。
この矢部、没年は不明のようであるが、面白い資料を見つけた。
久波奈名所図会 (上巻)
これによると、矢部は伊勢出身で、父は矢部右馬允主繁。
兄が某で、享禄三年出生、慶長十四年八月四月七日、八十四歳で没。
その弟が善七郎。永禄十年八月廿三始めて信長公に謁した。
神戸に於いて信長公野菊の花を採って、与えた事から家の紋所とする。
慶長十六年君恩を慕ひ、京都紫野大徳寺の内にて自殺す。
法号松円院殿といふ。五月朔日の事なり。
この様なものを見つけた。谷口先生の辞典でも没年不詳なので、驚くべき記述。
兄の年から見ると、思っていたより年長者に思える。
また、自殺した年も、思ったより後年のようである。
地誌なので、何とも言えないが、他に記述がないようなので、貴重なものと言える。
追記
慶長十六年とはどんな年だったか調べると、前月に秀頼が上洛して二条城へ家康に会見しているのである。これに何らかの関与していたのであろうか。
信長の親衛隊で、少し触れていらっしゃるが、変後秀吉に仕えるが、パッとしないようで、
武士なのに、竹を切り。釘として売っていたと、愛すべきキャラクターの人物。
信雄もそうだが、何か影の有る人物に興味を覚える。
この矢部、没年は不明のようであるが、面白い資料を見つけた。
久波奈名所図会 (上巻)
これによると、矢部は伊勢出身で、父は矢部右馬允主繁。
兄が某で、享禄三年出生、慶長十四年八月四月七日、八十四歳で没。
その弟が善七郎。永禄十年八月廿三始めて信長公に謁した。
神戸に於いて信長公野菊の花を採って、与えた事から家の紋所とする。
慶長十六年君恩を慕ひ、京都紫野大徳寺の内にて自殺す。
法号松円院殿といふ。五月朔日の事なり。
この様なものを見つけた。谷口先生の辞典でも没年不詳なので、驚くべき記述。
兄の年から見ると、思っていたより年長者に思える。
また、自殺した年も、思ったより後年のようである。
地誌なので、何とも言えないが、他に記述がないようなので、貴重なものと言える。
追記
慶長十六年とはどんな年だったか調べると、前月に秀頼が上洛して二条城へ家康に会見しているのである。これに何らかの関与していたのであろうか。
聞きなれない人物だと思いますが、信長の子である。
本能寺の変時、二歳なので生年は1581年生まれとなる。
十一男と言われる、信好より年下かどうか分からない。
信好は、秀吉の家臣となっていて、母も秀吉の庇護を受けたと思われるが、
樋口信胤は、母と共に越中に逃れたと言う。
幼名は、徳丸。母は樋口源兵衛長達の女 。
祖父長達は、成政に仕えるが、没落後、戦死。
母方の氏、樋口を名乗り仁左衛門と名乗る。
と言う事で、K2編、信長の男子系図。
村井重勝(織田信正)
織田信忠
北畠信雄
神戸信孝
津田信房
羽柴秀勝
織田信秀
織田信高
織田信吉
織田信貞
織田信好
織田長次
生駒直勝
五藤信親
樋口信胤
今後も増えるようであれば追加していきたい。
本能寺の変時、二歳なので生年は1581年生まれとなる。
十一男と言われる、信好より年下かどうか分からない。
信好は、秀吉の家臣となっていて、母も秀吉の庇護を受けたと思われるが、
樋口信胤は、母と共に越中に逃れたと言う。
幼名は、徳丸。母は樋口源兵衛長達の女 。
祖父長達は、成政に仕えるが、没落後、戦死。
母方の氏、樋口を名乗り仁左衛門と名乗る。
と言う事で、K2編、信長の男子系図。
村井重勝(織田信正)
織田信忠
北畠信雄
神戸信孝
津田信房
羽柴秀勝
織田信秀
織田信高
織田信吉
織田信貞
織田信好
織田長次
生駒直勝
五藤信親
樋口信胤
今後も増えるようであれば追加していきたい。
信長の娘、月明院が没した後実久は後妻を迎えた。
井伊直政の息女で、家康の四男忠吉の妻だった女性で、
忠吉没後実家に戻っていた後の事のようである。
その婚姻時期は、分からないが一人女子を産む。
長じて和田飛騨守に嫁した。
実久は元和二年十一月二十六日、三十四歳で没した。
法名は晴雲院月峯秀松
墓所は十念寺(阿弥陀寺の南の寺である)
初めましてさんのコメントに答えたもので、その後を記しましたが、
この後妻へは、大変気を使う相手ではなかったと思われます。
井伊直政の息女で、家康の四男忠吉の妻だった女性で、
忠吉没後実家に戻っていた後の事のようである。
その婚姻時期は、分からないが一人女子を産む。
長じて和田飛騨守に嫁した。
実久は元和二年十一月二十六日、三十四歳で没した。
法名は晴雲院月峯秀松
墓所は十念寺(阿弥陀寺の南の寺である)
初めましてさんのコメントに答えたもので、その後を記しましたが、
この後妻へは、大変気を使う相手ではなかったと思われます。
本能寺が、信長の時代というか天正十年頃どうだったか?
について、円乗坊という本能寺の僧と思われる鍵を握っているのではないかと。
藤井学氏の、本能寺と信長で分かり易く論考されてる。
本能寺に僧がいなかったというのは、フロイスの日本史に出てくるもの。
伝承で、本能寺の焼け跡からこの円乗坊が名物を堀り出したとの話があり、
駈け付けたのか?はたまた、居あわせたかがその証となるが。
ただ、本能寺は現在でも、信長時代以前の文書を保管しており、これを火災が全焼していない証拠と見るのか?追い出されたので、別の場所で保管していたのかが問題なのだが、、、
について、円乗坊という本能寺の僧と思われる鍵を握っているのではないかと。
藤井学氏の、本能寺と信長で分かり易く論考されてる。
本能寺に僧がいなかったというのは、フロイスの日本史に出てくるもの。
伝承で、本能寺の焼け跡からこの円乗坊が名物を堀り出したとの話があり、
駈け付けたのか?はたまた、居あわせたかがその証となるが。
ただ、本能寺は現在でも、信長時代以前の文書を保管しており、これを火災が全焼していない証拠と見るのか?追い出されたので、別の場所で保管していたのかが問題なのだが、、、
信長公記首巻に登場する赤沢加賀。
その居城については、以前書いたが、その人物についてはよく分らなかった。
それが分かる記述を見つけた。
信長に対して、鷹を進上しようとしたところ、天下を取ってからと返答した信長に、京都で笑いものにした赤沢だが、信長は本当に上洛を果たした。
赤沢加賀守は驚いたに違いない。案の定、光秀の丹波攻略の際、反抗したようである。
赤沢加賀守義政領之同郡穴太村長谷山ニ要害ヲ構へ、今長谷山ノ近辺領所詳ナラズ。天正年中明智日向守光秀ニ攻落サレ牢籠ノ身トナル。慶長八年十一月十日南掛村ニ於テ病死
(南掛村東懸村地頭並百姓代々記 正徳2年6月 石田伝左衛門長良著)
信長、秀吉、家康時代を生き抜いた事が分かり意外であった。
もう少し早く亡くなってると思っていた。どの様な気持ちで時代を見て晩年を過ごしたのでしょうか。
その居城については、以前書いたが、その人物についてはよく分らなかった。
それが分かる記述を見つけた。
信長に対して、鷹を進上しようとしたところ、天下を取ってからと返答した信長に、京都で笑いものにした赤沢だが、信長は本当に上洛を果たした。
赤沢加賀守は驚いたに違いない。案の定、光秀の丹波攻略の際、反抗したようである。
赤沢加賀守義政領之同郡穴太村長谷山ニ要害ヲ構へ、今長谷山ノ近辺領所詳ナラズ。天正年中明智日向守光秀ニ攻落サレ牢籠ノ身トナル。慶長八年十一月十日南掛村ニ於テ病死
(南掛村東懸村地頭並百姓代々記 正徳2年6月 石田伝左衛門長良著)
信長、秀吉、家康時代を生き抜いた事が分かり意外であった。
もう少し早く亡くなってると思っていた。どの様な気持ちで時代を見て晩年を過ごしたのでしょうか。



