偽書「武功夜話」の徹底検証 勝村公著 批評社 H20年8月
龍華様の記事から知りました上記本。京都で、手に入るかと思ってましたが、
ありましたよ。まだ全部読んでませんが、気になる箇所満載の内容となってます。
吉乃の所では、さすがと思わせる内容となっている。
以上、途中経過でした。
龍華様の記事から知りました上記本。京都で、手に入るかと思ってましたが、
ありましたよ。まだ全部読んでませんが、気になる箇所満載の内容となってます。
吉乃の所では、さすがと思わせる内容となっている。
以上、途中経過でした。
知られざる織田・今川七○年戦争の実相 橋場日明著 学研新書
日野の、関三代の展示説明に行こうかと思っていたが、上記新書を読了。
まさか、あの人物がその様な行動を取っていたとは。
予想外です。
信長がクーデターによる家督相続説など、斬新な切り口満載となってまして、あっというまに
読み終わってしまいました。
気になったところでは
1 赤塚の戦いのうわやりの解釈は、桐野様とは違い優勢であったとの論考である。
この解釈も、話題にした事もありますが、、、
2 天王坊
この解釈は大賛成。秋田氏が総見寺初代住持堯照法印を同じ様に津島とされているが、私もこの天王坊と思っている。
3織田民部
蟹江城に籠った斯波氏の婿と言う人物。民部と言う名乗りに注目。
信包が、民部大輔を名乗った時期はいつでしたっけ?
どちらかと言うと、息子の信重のほうがピンとくる。
この人物が、あの人物なのか。
これ以上はやめておきます。
久しぶりに、読み応えがありました。お値段もお安いですし、お奨めです。
かぎや様の感想も気になりますね。
日野の、関三代の展示説明に行こうかと思っていたが、上記新書を読了。
まさか、あの人物がその様な行動を取っていたとは。
予想外です。
信長がクーデターによる家督相続説など、斬新な切り口満載となってまして、あっというまに
読み終わってしまいました。
気になったところでは
1 赤塚の戦いのうわやりの解釈は、桐野様とは違い優勢であったとの論考である。
この解釈も、話題にした事もありますが、、、
2 天王坊
この解釈は大賛成。秋田氏が総見寺初代住持堯照法印を同じ様に津島とされているが、私もこの天王坊と思っている。
3織田民部
蟹江城に籠った斯波氏の婿と言う人物。民部と言う名乗りに注目。
信包が、民部大輔を名乗った時期はいつでしたっけ?
どちらかと言うと、息子の信重のほうがピンとくる。
この人物が、あの人物なのか。
これ以上はやめておきます。
久しぶりに、読み応えがありました。お値段もお安いですし、お奨めです。
かぎや様の感想も気になりますね。
大口町歴史民俗資料館 研究紀要1 H15年度 木浪浩行著
犬山城攻めの際に登場する小口。
ここも良くわからない所であるし、また、信長以前の織田氏に関して述べてあるが、この論考にしても
結論を出してない。
織田遠江守広近没後、中嶋豊後守が城主になった時期。
これについても、広近の子が引き継いだかも知れないし、言及できないと述べていらっしゃり、分からない事は、憶測を書かれないのは好感がもてる。
中嶋氏について、町内の余野神社に慶長年間に彫られた、中嶋佐兵衛尉というものや、村絵図に中嶋佐兵衛佑居城跡とある事から16世紀末には中嶋氏がこの辺りに関係を持っていたと指摘されてる。
おぐちの漢字表記について、では平安時代には小口という認識されていたらしいが、徳林寺の棟札に「大久地城主織田廣近」とあるところから、当時は「大久地」と表記していた可能性を指摘されてる。
石碑に見る織田広近以降の小口城では、大正年間に建碑された経緯が述べられている。
碑文は愛知懸教育会が文案を作った。
注目すべきは、その内容。
広近の子は常任といい、小口城と木之下城の両城の城主を兼ねて大和守と称した。
常任の子常孝は若くして亡くなりその子勝秀は小田井城主となった。そこで、同族の信安が小口城を領有し勝幡に城を築くに及び、その子信康が小口城に居城した。
また、同時期に建てられた勝幡城跡に建つ石碑には織田信定は前は小口城主であったと記されてる。
とある。著者も述べられているが、これらはあまり研究の進んでいない段階のものであり、当時、見ることのできる史料が少ない中での碑文案作成であったと締めくくられている。
全体に見て、この著者の資料に対する、謙虚さには読んでいて好感が持てるし、また百年後には、我々が今常識と思われてる事も、一笑に附されてる可能性があることを念頭におかなければならない事を示唆しているといえよう。
犬山城攻めの際に登場する小口。
ここも良くわからない所であるし、また、信長以前の織田氏に関して述べてあるが、この論考にしても
結論を出してない。
織田遠江守広近没後、中嶋豊後守が城主になった時期。
これについても、広近の子が引き継いだかも知れないし、言及できないと述べていらっしゃり、分からない事は、憶測を書かれないのは好感がもてる。
中嶋氏について、町内の余野神社に慶長年間に彫られた、中嶋佐兵衛尉というものや、村絵図に中嶋佐兵衛佑居城跡とある事から16世紀末には中嶋氏がこの辺りに関係を持っていたと指摘されてる。
おぐちの漢字表記について、では平安時代には小口という認識されていたらしいが、徳林寺の棟札に「大久地城主織田廣近」とあるところから、当時は「大久地」と表記していた可能性を指摘されてる。
石碑に見る織田広近以降の小口城では、大正年間に建碑された経緯が述べられている。
碑文は愛知懸教育会が文案を作った。
注目すべきは、その内容。
広近の子は常任といい、小口城と木之下城の両城の城主を兼ねて大和守と称した。
常任の子常孝は若くして亡くなりその子勝秀は小田井城主となった。そこで、同族の信安が小口城を領有し勝幡に城を築くに及び、その子信康が小口城に居城した。
また、同時期に建てられた勝幡城跡に建つ石碑には織田信定は前は小口城主であったと記されてる。
とある。著者も述べられているが、これらはあまり研究の進んでいない段階のものであり、当時、見ることのできる史料が少ない中での碑文案作成であったと締めくくられている。
全体に見て、この著者の資料に対する、謙虚さには読んでいて好感が持てるし、また百年後には、我々が今常識と思われてる事も、一笑に附されてる可能性があることを念頭におかなければならない事を示唆しているといえよう。
快川と濃甲同盟 横山住雄著
これは、斉藤義棟(竜興)と武田信玄の奉行との同盟に関して触れられた論考。
ここでは、信玄に面会した時が触れられているが、その建物は金銀で飾り立てた素晴らしいもので
あったと記されている。
ドラマ等では、武田の館は地味なものだが、実際は違うようである。
しかし、実際の同盟は斉藤氏側の原因で遅延したらしい。
それは、信長による犬山城攻めと鵜沼城攻略があった為である。
横山氏は犬山攻めを、奥野氏の永禄七年を否定し、永禄八年説を提唱されている。
本稿で、東大印哲の瀧田文庫の「異本葛藤集」があり、その中に、元亀四年(1573)の東庵宗暾による
「青龍山瑞泉禅寺方丈再興上堂」の語に、
永禄八年二月二十二日、此山伽藍、回禄の変に罹り、焦土に尽成すと記されいる。
これにより瑞泉寺の炎上した時期が確定すると共に、犬山城落城に関しての一つの傍証となる。
信長は、この二月二十二日に犬山周辺を焼き払ったものと思われ、公記にあるように鹿垣を巡らした事になる。
横山氏の資料発掘には、脱帽するとともに、今後も新たな資料を期待したいものです。
これは、斉藤義棟(竜興)と武田信玄の奉行との同盟に関して触れられた論考。
ここでは、信玄に面会した時が触れられているが、その建物は金銀で飾り立てた素晴らしいもので
あったと記されている。
ドラマ等では、武田の館は地味なものだが、実際は違うようである。
しかし、実際の同盟は斉藤氏側の原因で遅延したらしい。
それは、信長による犬山城攻めと鵜沼城攻略があった為である。
横山氏は犬山攻めを、奥野氏の永禄七年を否定し、永禄八年説を提唱されている。
本稿で、東大印哲の瀧田文庫の「異本葛藤集」があり、その中に、元亀四年(1573)の東庵宗暾による
「青龍山瑞泉禅寺方丈再興上堂」の語に、
永禄八年二月二十二日、此山伽藍、回禄の変に罹り、焦土に尽成すと記されいる。
これにより瑞泉寺の炎上した時期が確定すると共に、犬山城落城に関しての一つの傍証となる。
信長は、この二月二十二日に犬山周辺を焼き払ったものと思われ、公記にあるように鹿垣を巡らした事になる。
横山氏の資料発掘には、脱帽するとともに、今後も新たな資料を期待したいものです。
宇野日出生著 戦国史研究会 第25号
信長ではないが、秀吉の家臣の紹介。
河原定勝は、主に名護屋城本丸や御土居建設を始めとする、土木工事を中心に手腕をふるったことが知られている。京都の歴史第四巻に発給文書を写真とともに紹介されてはいるが、マイナーな人物にはかわりない。
その河原家現在でも子孫の方がいらっしゃり、貴重な資料をお持ちである。
その中でも定勝の四女である玉について、であるが、あまり知られていないが,豊臣秀次の側室であったとある。それに関連して、玉に発給された知行宛行状が残されている。
しかし、秀次の妻妾についてはご存知の様に、三条河原で処刑されている。
その中に、何故か河原長右衛門の女、玉と言うのは見受けられない。
定勝は、醍醐の花見の時、加賀殿の隋従を果たしているが翌年三月十三日没している。
その墓は、京都市右京区嵯峨越畑の阿弥陀寺に残されている。
これは、子である源之充が、越畑に移り住んだ事によるものである。
この越畑という場所は、京都市右京区とは言うものの、生活圏は完全な亀岡。
電話番号も京都市の075ではなく、バスも亀岡から出ている。
愛宕山の向こう、水尾の集落から樒原(しきみがはら)の集落を越えた、次の集落にある山に囲まれた田舎なのです。
ここに京都市最古の民家と言われるものが、京都市有形文化財河原家住宅。
そう、河原家の子孫の家だったもので、時代劇にでてきそうな素晴らしい建物であるが、遠方過ぎて見学される方はいないと思いますが(笑
この住宅、地元京都銀行のポスターに採用されていた事もあるが、これが河原氏とは結びつかなかった。
信長ではないが、秀吉の家臣の紹介。
河原定勝は、主に名護屋城本丸や御土居建設を始めとする、土木工事を中心に手腕をふるったことが知られている。京都の歴史第四巻に発給文書を写真とともに紹介されてはいるが、マイナーな人物にはかわりない。
その河原家現在でも子孫の方がいらっしゃり、貴重な資料をお持ちである。
その中でも定勝の四女である玉について、であるが、あまり知られていないが,豊臣秀次の側室であったとある。それに関連して、玉に発給された知行宛行状が残されている。
しかし、秀次の妻妾についてはご存知の様に、三条河原で処刑されている。
その中に、何故か河原長右衛門の女、玉と言うのは見受けられない。
定勝は、醍醐の花見の時、加賀殿の隋従を果たしているが翌年三月十三日没している。
その墓は、京都市右京区嵯峨越畑の阿弥陀寺に残されている。
これは、子である源之充が、越畑に移り住んだ事によるものである。
この越畑という場所は、京都市右京区とは言うものの、生活圏は完全な亀岡。
電話番号も京都市の075ではなく、バスも亀岡から出ている。
愛宕山の向こう、水尾の集落から樒原(しきみがはら)の集落を越えた、次の集落にある山に囲まれた田舎なのです。
ここに京都市最古の民家と言われるものが、京都市有形文化財河原家住宅。
そう、河原家の子孫の家だったもので、時代劇にでてきそうな素晴らしい建物であるが、遠方過ぎて見学される方はいないと思いますが(笑
この住宅、地元京都銀行のポスターに採用されていた事もあるが、これが河原氏とは結びつかなかった。


