泰巖宗安記
織田信長に魅せられた管理人が、信長に関するあらゆるものを(女性史を中心に)紹介して行きます。
伝 織田信長黒印状
そのほうよりわたされ候へく候
はせべのわきさしあけ候、お のかたへ此銀子十まいつかわしたく候
五月十八日 (黒印)
そうはく

本文書ニツイテ、明治十九年九月二十九日付修史局編集星野恒等ガ作成した「古文書取調記」
ニハ、「織田信長公御筆」ト艦シテイル。寺伝モ信長ノモノトスル。

本能寺史料に見える、無名な書状。
他に寺宝に陣太鼓 信長公所持、寄付人不詳。陣太刀 無銘 信長公所持、焼刃、朱鞘 寄付人不詳
等、寺宝館でも見れないものガ見受けられる。
また、この史料集を見る限り建物配列は多々変わってるようだ。
また上知により寺地を召し上げられたようだが、御池通りの拡張によるものと思われる。
信長の墓も、建てもの配列に入ってないが、墓地は広くあるようなので、現在の配列に変わるのは、明治以降のようだ。
絵本織田信長記
歴読誌の信長特集。
何といってもその分量の多さに驚く。
表紙は、安土城。着色を加えた天主は最上層の屋根の色が違うのがイイ。
本編はその量から、どれを取り上げるか迷うほど多い。
信長、将軍義昭を攻める
では梶川弥三郎が一番乗りを果たすのを描かれてる。
しかしながらこの絵、柳山方面から槇島城へと渡河している背後に山が見えるが、
あの方面に見える山は後に伏見城が築かれる木幡山。
しかし、この山並みは宇治の山並みに見える。
どうやら、作者は槇島城を東側と考えて描いたのではないでしょうか。

鈴木重幸、信長を狙撃す
では天正四年の本願寺攻めのおりの負傷を、鈴木の狙撃としている。
急所を外れていたが、わざと落馬して敵の目を欺くとは面白い。
これが、智鉄丸だったんですね。

信長、凶夢を見る
は、面白い。信長が午年である事の証左の一つとしてあげられよう。
また、この頃から正月二日に見る夢は、初夢だったんですね(笑

織田信長研究 最前線では各専門の方の論考がずらっと並ぶ。
金子氏の「信長記」研究の現在では、共同研究を行っていらっしゃる代表者さんの中間報告とも
いうべきものでしょうか。
信長記の研究成果の経緯を書いていらっしゃり、問題点やこれからのありようなど論考されてる。
角川文庫の信長公記は、注釈や読み下しなど使いやすいものとなっているが、もう何十年も経過しているので、新しく分かった事もあるでしょう。
一番気になってるのは、昨今の市町村合併による現在地の違い。
例えば、勝幡城跡は現在愛西市、角川版は佐織町。
この調査後のテキストに期待する。
この項の最後に自筆本入手における系図の載せられてる。
旗本花房家からの伝来の手がかりの今後の成果に期待している。

この本の広告に、今後楽しみな予告を見付けた。
歴史と古典
信長公記を読む 堀新編 吉川弘文館
尾張 織田一族 谷口克広著 新人物往来社
が刊行されるそうだ。発売が待たれる。
信長と鼓
信長の趣味はと言えば、乗馬、お茶、鷹狩り、女踊り、などなど
年齢によって趣向も変わったっていったかも知れないが、今回取り上げるのは
鼓。

天理本信長記に、桶狭間出陣の前日に、
信長公御鼓にて乱酒ニ罷成退出被申候也

や、上洛後義昭が所望したと言うのは、有名な話。
信長が誰に習ったかは分からないが、某寺院に信長から与えられたと言う某氏所蔵だった
鼓が残されていて、数年前お願いして拝見させて頂いた。
鉄砲や、馬はもちろん残されていないので貴重なものである。
狂乱と冷徹の軍事カリスマ
連載も8回目になりました、桶狭間の最終章。
桶狭間について、論点と主な研究家の名を示しまた、桐野様なりの解釈を分かり易く
解説されている。
中島砦へ信長が向かおうとした時、見物人が帰ったのを、先日三ノ山から、善照寺へ行って見て分かる様な気がする。それまでは、味方の圏内で、敵も見えないし、また安全であったが、ここ善照寺砦は、一番高くて見晴らしの良い所でもあるが、逆に敵方からも丸見えである。
佐々らの敗戦を見て、恐怖を憶えたのも無理はないでしょう。
桐野様の言う、帰ったのは視認できたものと思われるというのは、当たっているように私は感じた。
個人的には轡を取って止めた、家老衆がついていったかどうかが気になる。

義元の本陣についても、気になっている漆山について論考されてる。
最後の指摘である、漆山より西をはじめ志向したのではというのは、なるほどと感じた。
桶狭間は終わってしまいますが、他の所で新たなる論考を期待しましょう。
氏郷記を読む会研究レポート
昨日、近くまで行ったので大徳寺旧昌林院跡へお参りした。
蒲生氏郷の元々の墓所。
現在は改装されて黄梅院に墓がある。
お参りしたかったのは、次男利政室籍姫の墓。

例えば歴史読本利家とまつをめぐる女たち 2002年9月号
加賀藩 藩主夫人 に於いて 宇佐美孝著
では、籍の法号は松雲院とのみ伝えられ、没年も未詳である。
関が原の合戦を境として、大名の室として名を歴史の中に刻んだであろうはずが、
夫の領地廃絶に伴いその名も歴史の中に埋没していった。

とあるが、籍姫は大徳寺に埋葬されている事が確認できる。
昌林院過去帳によると、
松雲院殿竜樹宗吟大禅定尼 氏郷公女 寛永十三年四月四日
位牌アリ 石塔アリ
加賀前田孫四郎利政正室。
とある、信長の外孫は、意外に近くに埋葬されていた。