尾張名陽図会 巻之三
先の記事、安土城に残る織田信長墓は、当初の物とは違ったのでは無いかと
指摘しましたが、名古屋に残る信長墓も食い違っている。
この絵図によると、信長公五輪。
つまり、総見寺方丈、書院の左側に五輪塔が描かれてる。
しかしながら、現在戦災によって被災した跡も生々しい墓形は宝筺印塔。
(再建した塔の下、基壇横に安置)
江戸時代において、名古屋もそうですが、安土城跡内へ簡単に参拝できたのかと言う、
根本的な疑問も湧く。
作者の想像した墓形なのでしょうか?
先の記事、安土城に残る織田信長墓は、当初の物とは違ったのでは無いかと
指摘しましたが、名古屋に残る信長墓も食い違っている。
この絵図によると、信長公五輪。
つまり、総見寺方丈、書院の左側に五輪塔が描かれてる。
しかしながら、現在戦災によって被災した跡も生々しい墓形は宝筺印塔。
(再建した塔の下、基壇横に安置)
江戸時代において、名古屋もそうですが、安土城跡内へ簡単に参拝できたのかと言う、
根本的な疑問も湧く。
作者の想像した墓形なのでしょうか?
偽書「武功夜話」の徹底検証 勝村公著 批評社 H20年8月
龍華様の記事から知りました上記本。京都で、手に入るかと思ってましたが、
ありましたよ。まだ全部読んでませんが、気になる箇所満載の内容となってます。
吉乃の所では、さすがと思わせる内容となっている。
以上、途中経過でした。
龍華様の記事から知りました上記本。京都で、手に入るかと思ってましたが、
ありましたよ。まだ全部読んでませんが、気になる箇所満載の内容となってます。
吉乃の所では、さすがと思わせる内容となっている。
以上、途中経過でした。
織田信秀が出家していた資料や、信長によってクーデターによって隠居させられたなど、
俄かに、注目を集めてきた信秀。
信秀には、信長同様沢山の子宝に恵まれた。
生年には、疑問がある者もあるが、ざっと順番に並べてみる。
1533年 信広?
1534年 信長
1535年 信勝?
1536年
1537年 信与?
1538年
1539年
1540年
1541年 秀孝?
1542年 信包
1543年 秀成?
1544年 信治
1545年
1546年 信照
1547年 長益、お市の方
1548年
1549年 長利
1550年
1551年
1552年 小田井殿(信直室) 同年 信秀没。
残念ながら、女子の生年がほとんど分からないので、中途半端な年表となってしまったが、
毎年ぐらいの勢いで子をなした事が分かる。
信長は、一定の時期に多く出来て、間が空いてまたと言った具合なので、父とは少し違っていたと指摘できる。また、没年と同年に子を成してるから、重病であったというのは、どうなのでしょうか?
出家は、どう判断すれば良いのでしょうか?
孫の信雄(常真)も出家しても、子を成したように感じてるので形だけの入道だったと理解すれば良いのでしょうか。
気になるのは、晩年の最後の子の母は、岡田正人氏が指摘されてる養徳院つまり、信長乳母であったと言うのは、この時期反信長派であったとの証左でしょうか。
そうであれば、乳母養徳院のイメージが崩れてしまいますね。
俄かに、注目を集めてきた信秀。
信秀には、信長同様沢山の子宝に恵まれた。
生年には、疑問がある者もあるが、ざっと順番に並べてみる。
1533年 信広?
1534年 信長
1535年 信勝?
1536年
1537年 信与?
1538年
1539年
1540年
1541年 秀孝?
1542年 信包
1543年 秀成?
1544年 信治
1545年
1546年 信照
1547年 長益、お市の方
1548年
1549年 長利
1550年
1551年
1552年 小田井殿(信直室) 同年 信秀没。
残念ながら、女子の生年がほとんど分からないので、中途半端な年表となってしまったが、
毎年ぐらいの勢いで子をなした事が分かる。
信長は、一定の時期に多く出来て、間が空いてまたと言った具合なので、父とは少し違っていたと指摘できる。また、没年と同年に子を成してるから、重病であったというのは、どうなのでしょうか?
出家は、どう判断すれば良いのでしょうか?
孫の信雄(常真)も出家しても、子を成したように感じてるので形だけの入道だったと理解すれば良いのでしょうか。
気になるのは、晩年の最後の子の母は、岡田正人氏が指摘されてる養徳院つまり、信長乳母であったと言うのは、この時期反信長派であったとの証左でしょうか。
そうであれば、乳母養徳院のイメージが崩れてしまいますね。
知られざる織田・今川七○年戦争の実相 橋場日明著 学研新書
日野の、関三代の展示説明に行こうかと思っていたが、上記新書を読了。
まさか、あの人物がその様な行動を取っていたとは。
予想外です。
信長がクーデターによる家督相続説など、斬新な切り口満載となってまして、あっというまに
読み終わってしまいました。
気になったところでは
1 赤塚の戦いのうわやりの解釈は、桐野様とは違い優勢であったとの論考である。
この解釈も、話題にした事もありますが、、、
2 天王坊
この解釈は大賛成。秋田氏が総見寺初代住持堯照法印を同じ様に津島とされているが、私もこの天王坊と思っている。
3織田民部
蟹江城に籠った斯波氏の婿と言う人物。民部と言う名乗りに注目。
信包が、民部大輔を名乗った時期はいつでしたっけ?
どちらかと言うと、息子の信重のほうがピンとくる。
この人物が、あの人物なのか。
これ以上はやめておきます。
久しぶりに、読み応えがありました。お値段もお安いですし、お奨めです。
かぎや様の感想も気になりますね。
日野の、関三代の展示説明に行こうかと思っていたが、上記新書を読了。
まさか、あの人物がその様な行動を取っていたとは。
予想外です。
信長がクーデターによる家督相続説など、斬新な切り口満載となってまして、あっというまに
読み終わってしまいました。
気になったところでは
1 赤塚の戦いのうわやりの解釈は、桐野様とは違い優勢であったとの論考である。
この解釈も、話題にした事もありますが、、、
2 天王坊
この解釈は大賛成。秋田氏が総見寺初代住持堯照法印を同じ様に津島とされているが、私もこの天王坊と思っている。
3織田民部
蟹江城に籠った斯波氏の婿と言う人物。民部と言う名乗りに注目。
信包が、民部大輔を名乗った時期はいつでしたっけ?
どちらかと言うと、息子の信重のほうがピンとくる。
この人物が、あの人物なのか。
これ以上はやめておきます。
久しぶりに、読み応えがありました。お値段もお安いですし、お奨めです。
かぎや様の感想も気になりますね。
安土城考古博物館、秋季特別展 天下人を祀るでは、どの様な展示になるのでしょうか。
管理人は、勝手に憶測してみます。
織田信長の画像で、神格化されてるものは、
京都 大雲院本と愛知寂光院本の二つである。
大雲院本については、京都大徳寺総見院本を模した事が容貌から指摘できる。
寂光院本については、他と全く違う容貌であり、また真言宗寺院に伝来している特異なものであるので、よく分からない。
しかしながら、大雲院本の製作年代を考えると、どうも江戸時代に入ってからのようである。
そして、一番の神格化と考えられるのは画像ではなく、安土城伝二の丸にある信長廟と考えられる。
あまり知られてませんが、仁正寺大守代々登山記録の中に
(元文2年8月)五日、領地江明日之役人申付、歩五人来、天主卵塔、表坂百々橋迄、裏坂江藤道筋掃除申付ル也。
とあり、当初からあのような墓塔では無かった事が指摘できる。
近江名所図絵に描かれたように、五輪の塔であったと思われる。
卵塔とは、五輪の塔の丸石の部分を当てたものと推測できるし、現在の墓塔を卵塔と言うのは無理があるでしょう。
秋田裕毅氏は、織田信長と安土城で享保年間には現状と同じだから、基本的な形態まで変えなかったと考えてもよいであろうと述べていらっしゃる。
また神になった織田信長でも、シンポジウムでの発言が載っているが、
墓の製作年代を問われて、蒲生郡志に秀吉が一周忌に建てた事を指摘されているが、よく分からないと述べられている。秋田氏は本当に仁正寺藩のこの記録。安土町史にも活字化されてるこの資料、知らなかったのでしょうか?
それはさて置き、神格化は江戸時代に、織田家によって行われた事が指摘でき、信長廟の改変の時期は、意外に新しい印象を受ける。
管理人は、勝手に憶測してみます。
織田信長の画像で、神格化されてるものは、
京都 大雲院本と愛知寂光院本の二つである。
大雲院本については、京都大徳寺総見院本を模した事が容貌から指摘できる。
寂光院本については、他と全く違う容貌であり、また真言宗寺院に伝来している特異なものであるので、よく分からない。
しかしながら、大雲院本の製作年代を考えると、どうも江戸時代に入ってからのようである。
そして、一番の神格化と考えられるのは画像ではなく、安土城伝二の丸にある信長廟と考えられる。
あまり知られてませんが、仁正寺大守代々登山記録の中に
(元文2年8月)五日、領地江明日之役人申付、歩五人来、天主卵塔、表坂百々橋迄、裏坂江藤道筋掃除申付ル也。
とあり、当初からあのような墓塔では無かった事が指摘できる。
近江名所図絵に描かれたように、五輪の塔であったと思われる。
卵塔とは、五輪の塔の丸石の部分を当てたものと推測できるし、現在の墓塔を卵塔と言うのは無理があるでしょう。
秋田裕毅氏は、織田信長と安土城で享保年間には現状と同じだから、基本的な形態まで変えなかったと考えてもよいであろうと述べていらっしゃる。
また神になった織田信長でも、シンポジウムでの発言が載っているが、
墓の製作年代を問われて、蒲生郡志に秀吉が一周忌に建てた事を指摘されているが、よく分からないと述べられている。秋田氏は本当に仁正寺藩のこの記録。安土町史にも活字化されてるこの資料、知らなかったのでしょうか?
それはさて置き、神格化は江戸時代に、織田家によって行われた事が指摘でき、信長廟の改変の時期は、意外に新しい印象を受ける。


